
D’Angelo(Michael Eugene Archer)は、単なるR&Bアーティストの枠を超えた存在だ。1990年代後半から2000年代初頭にかけての「ネオ・ソウル」と呼ばれるムーブメントの中心に彼は確かにいた。しかし、彼のサウンド、佇まい、そして“沈黙”までもが、ネオ・ソウルを一過性のトレンドではなく、音楽史に息づく「芸術」として確立させた。
1995年のデビュー作『Brown Sugar』は、J Dillaのスウィングするビート感と、70年代ソウルへの敬愛が同居するミニマルかつ艶やかな作品でありながら、そこに漂うスピリチュアリティとラフさのバランスは、既存のR&Bの文法から微妙にズレていた。ここには既に、「黒人音楽の文脈を更新する意志」が潜んでいた。
そして2000年のセカンド・アルバム『Voodoo』──これこそがD’Angeloの真骨頂であり、音楽的錬金術の極致である。Pino Palladino、Questlove、Charlie Hunterらによるグルーヴのレイヤーは、ヒップホップ的ビート感覚と70年代ファンクの粘性を絶妙に融合。あの“タメ”の美学は、J Dilla的な「ポケット」の拡張であり、James Brown的なミニマル・ファンクの再構築でもある。「Untitled (How Does It Feel)」のボーカル・アプローチは、もはや歌唱というより「息遣い」の芸術だ。
その後、長い沈黙──いや、”自己解体と再構築”の時期を経て、2014年末に突如として投下された『Black Messiah』。この作品は単なる復活劇ではない。プリンス、Sly Stone、Funkadelic、さらには黒人解放運動の文脈すら内包しつつ、全体としてはD’Angeloという「媒体」を通して発信された集合的な怒りと祈りである。ミックスはローファイ気味で、演奏はもはやリズムというより“うねり”。それゆえに魂にダイレクトに響く。彼が“Messiah”を名乗ったのは決して誇張ではなく、黒人音楽史における“声なき声”を代弁する者としての使命だったのだ。
D’Angeloは寡作だが、それゆえに1音1呼吸がすべて計算された瞬間の連続である。彼の作品はアルバム単位で体験するものであり、曲単位で語るにはスケールが足りない。そこにあるのは、グルーヴではなく“時間そのものの解釈”だ。
そして、その「時間」が2025年に静かに止まった。
2025年春、彼はフィラデルフィアで開催予定だった Roots Picnic への出演を発表し、久々の公の場に姿を見せるはずだった。しかし、直前になって「今年初めに受けた手術の回復が遅れており、医師団の助言により出演を断念する」と声明を出した。その文面には、ファンへの深い感謝と、「すぐにまた会おう」という希望が綴られていた。だが、それが最後のメッセージとなった。
10月14日、D’Angelo (Michael Eugene Archer) は膵臓がんのため帰らぬ人となった。享年51。数か月にわたる闘病の末、静かに息を引き取ったという。
彼の家族は「彼は最後まで勇敢に闘った」と声明を発表し、かつてのパートナーでありソウル・シンガーのAngie Stoneを今年初めに失っていたことも、ファンにとっては痛ましい重なりとなった。
『Black Messiah』以来10年、彼は沈黙を続けながらも、“時間”と向き合い続けていた。その沈黙の中で、彼は再び音楽を紡ごうとしていたのだろう。だが、最後まで彼のペースで、彼の呼吸で、その「時間」は流れ、そして止まった。
Rest In Peace D’Angelo


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